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趣味を多彩に

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◆先週末、鴨居にある横浜ららぽーとに初めて行ってきた。夜8時頃だったにも関わらず、さすがに駐車場入り口は車の行列だった。この大型ショッピングモール内で、僕が久々に一番長居したのが、プラモデル屋である。
◆「小学校の頃は、プラモデルをしないやつがいたら馬鹿にされるくらい、みんな当たり前のようにやっていた」と、話していたのは僕の親父だ。店内には、様々なジャンルの模型が並べられている。戦艦、飛行機、自動車、電車、そして親子連れが目を輝かせていたガンダムなどなど。歴史好きである僕は、お城や戦国武将のコレクションに目を輝かせていたが。
◆プラモデルとは言えないが、僕の年少期に流行ったものといえば「ミニ四駆」だろう。専用のコースをそれぞれ自慢のマシンで競うだけでなく、車体を改造したり、モーターを換えたりして遊ぶ楽しみがあった。
◆最近の小学生の間では何が流行っているのだろうか。最近は電車や野外でも、ゲーム機に熱中する子供たちが目につくようになった気がする。ゲーム機で遊ぶのがいけないとは全く思わないが、その場所や状況に相応しい「遊び」をするべきだとは思っている。果たして、30年後の子供たちの間では何が流行るだろうか。
◆最近、自分の趣味を豊かにしようと休日に色々なことを企んでいる。プラモデルもじつはその一つなのだが、春先にバイクでソロツーリング、ソロキャンプをすることだ。まずは、相模川辺りでどうだろう。テントを張って、火をおこして、ただ静かに時間が流れる。何か、自分の人生を豊かにさせる趣味を増やしていきたいと思っている。
(2009年3月21日)

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ブタペストの温泉に浸かれば

脱衣場に入る際、おじさんからタオル類を渡されたが、その中に白い正方形のふんどしがあった。最初はその物体が謎であったが、周りを見渡すと、皆しっかりと 腰に巻いている。このふんどしは、湯に浸かる時もずっと巻いたままであり、ハンガリーの伝統的な入浴のスタイルなんだ、と慣れない様子の僕に察してくれたのは、近くにいた眼鏡のおじさんが教えてくれた。
  浴場に入ると、目を開けていられないほど白い湯気が立ち込めていて、中央部には円形の大きな浴槽が一つと、その周りには温度の異なる小さめの浴槽が囲むよ うにしていくつかある。奥には、サウナ、マッサージルーム、仮眠室なども完備していて、施設だけの環境で言えば、日本の健康ランドにやや近い。しかし、小 じんまりとした外観とは異なり、内装は立派な石造りで、ビクともしなそうな太い円柱が支えている。ドーム型の高い天井には、いくつかの小窓から外の光が差し込み、その光が薄暗い室内に満ちている白い湯煙を幻想的に照らして、何だか古代の建物の中にいるような壮大な雰囲気が浴場内にはある。
  湯に浸かった瞬間、ヨーロッパでしばらくシャワーしか浴びていなかったせいか、全身の力が一気に抜けて、ほっとしてしまった。そして、やはり俺は風呂好き の日本人なのだと心から実感した。ただし周りには、日本人ではなくてハンガリー人ばかりだ。おまけに若者はほとんどおらず、中年の人が目立つ。なかには、 熊のような巨体の人がいて、隅にある小さな浴槽にその身を勢いよく投じた瞬間、その半分近くにもなりそうな湯がどっと溢れ出た。健康のために、温泉を利用 している人も多いようである。そういう意味では、日本人とも共通している。

 このルタージュ温泉は、今から400年も昔に建てられ、当時のハンガリーは、オスマン帝国の支配下にあった。そして、このルタージュ温泉も彼らオスマン人によって建てられたものである。浴場内にあった水飲み場には、当時のオスマン帝国の英雄の名前が刻まれていた。

「ハンガリー人の多くは、本当はプールのような巨大で野外の温泉が好きなんだ。ここは見ての通り、完全屋内だろう。それは、ここが我々の先祖が建てたわけじゃないからね」

と、先ほどの眼鏡のおじさんが湯に浸かりながら説明してくれた。僕はおじさんと会話を続ける。話がブタペストの話に変わった。

「僕 がまだ若い頃は、ドナウ河には今のように大きな橋が何本も架かっていないから、みんな小さな船を使って渡ったんだよ。真冬は、川がコチコチに凍るから、み んな歩いて渡るんだ。馬を率いてソリで渡っていた人もいたよ。我々には、それが楽しい思い出だった。今では冬になっても川はちっとも凍らなくなってしまっ て残念だよ」

 と、おじさんは寂しそうに自分の昔話を語ってくれたのだった。

  1872年にブタとペストが合併するが、その合併への過程は大変なものであった。ブタとペストのような小さな町が他にもたくさんあったが、当時はオースト リアとの二重帝国の時代で、オーストリアの皇帝が言わば、ハンガリー王国の支配力を握っていた。当時のハンガリー各々の町には、独力で町を合併するなどの 力もなく、それぞれの町内での規制も厳しかった。1918年、この二重帝国は解体するが、それ以前にはすでにブタとペストは合併し、準首都に命ざれた。ハ ンガリー王国側にしてみれば、それは相当の妥協があったに違いない。オーストリア皇帝の保養地ともなっていたブタペストは、ウィーンから地理的にも非常に 好都合だったという点もあるだろうが、この街には、そうしたオスマン帝国からオーストリア皇帝の権力が根付いていると共に、近代ではソビエト連邦の軍事介 入などの影響を多大に受けている。「東欧」と聞くと、ヨーロッパ内において経済発展が遅れ、どうも治安が良くないイメージがあった。しかしこの街は、ハン ガリーの政治・経済を担う中欧最大の都市でもある。
 おじさんの話は、ついに日本のことに移っていく。僕が日本人だと知ると、

「日本の映画はおもしろい。特にクロサワ映画はね。僕は七人の侍が好きだよ。もう何回も見たなぁ。日本のどこに住んでいるんだ? 」

と、僕が「YOKOHAMA」だと答えると、

「おぉ~ヨコハマァ! ブルーライト・ヨコハマという歌を昔、ラジオで聞いたことがある。意味は分からなかったけど、いいメロディだったね。ぶるぅ~らいとぉ~よこぉはまぁ~♪ こんな感じだったか? 

 そして、東京については、

「確か、東京オリンピックを当時、世界初の衛星放送で見ていた覚えがあるな。あの時、初めて東京という街をブラウン管から見たんだ。あれは感動したなぁ~」

と、 こんな具合に、おじさんは日本と自分の思い出を重ねて語り明かしてくれたのであった。少なくとも僕にとっては、自分の親の世代の話である。当時の彼の生活 事情が、僕の親父の若い頃の生活事情と重なっているような気がした。とにかく、ハンガリー人のおじさんが、ここまで日本について知ってくれていて興味を 持ってくれているという事実は、やはり当時の日本が急速な速さで高度経済成長を遂げ、世界に様々な影響を与え始めていたことと無関係ではないだろう。また 経済的な影響だけでなく、先に述べたクロサワ映画については、旅で出会った多くの人間が口にしていたのである。
 旅行中、毎日のように「どこから来たんだ?」という質問を色んな人から受けるが、
「JAPANと答えるだけで、少なからず、そうした祖国の先輩が残してくれた輝かしい功績のおかげで、実に多くの人たちが関心を示してくれた。どこの馬の骨とも分からない旅行者にとって、それは非常に嬉しいことであり、ありがたいことであった。 
 湯に浸かりながら、長い間おじさんの話を聞いていた僕は
、完全にのぼせてしまった。ちなみに、いつもどのくらいこの温泉にいるのか、と、おじさんに聞いてみると、

「長い時は、6時間くらいはいるかなぁ」と、あっさり言い放った。それを聞いて、僕は湯から出た。何だか負けた気分になってしまった。

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ブタペストの温泉

夕刻、ブタペスト中央駅のホームに降り立つと、ここはまだ夏のようだった。厚着をしている人は皆無であり、薄着で涼しげなハンガリー女性たちがたくさん歩い ている。僕は、ウィーンから着込んでいたダウンジャケットを慌てて脱いだ。列車で四時間ほど東へ来るだけでこの違いである。
 当初、ヨーロッパ周遊においてハンガリーは訪れる予定がなかったが、プラハで出会った旅行者にブタペストには温泉がたくさんあることは聞いていた。
そして、僕がこのブタペストへやって来たのも、まさにその「温泉」に浸かろうというものであった。温泉好きということでは、我が日本と共通する国民性であるし、東欧の温泉とはどんなものか知りたくなった。
  実は、ハンガリー人の温泉好きは、日本人のそれに負けないどころか、圧倒させられてしまうほどである。ブタペストの街には、大小様々な温泉が点在してい る。ドナウ河に架かる大きな橋の一つであるエルゼベート橋のたもとで、湯煙を上げているルタージュ温泉に行った。この温泉は、他のキラリー温泉などに比べ ると規模はやや小さく、完全屋内の温泉である。また、男女共同で一つの温泉施設を利用しているため、曜日によって男性の日、女性の日と分けられている。一 度、この温泉を訪れた時、運悪く女性の日であったため、入場を断られてしまった。なぜ温泉に入れないのか理由が良く分からず、英語がほとんど通じない受付 の女性が一枚の張り紙を見ながら説明してくれているうちに、ようやくその掟が理解できたのだった。
 というわけで、僕は翌日、「男性の日」に再びここへやって来て、そして堂々と入場することができた。

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旅に出る前から、ヨーロッパで一つ行っ て見ようと思っていた街がある。東欧(現在では中欧という位置付けになっている)の入り口にあるチェコ(旧チェコ・スロバキア)の首都プラハである。 1939年、この国はナチス・ドイツに占領され、第二次世界大戦後に解放となるが、それまでの社会主義政治が色濃く残った。だが、それも東欧民主化の動き の中で、1989年、ついに共和党政権が崩壊した。翌年には、「社会主義」は完全に国名から消え、スロバキアとの分離、独立となったのは、1993年である。そう考えると、チェコという一つの新しい共和国が成立したのも、それほど昔のことではない。

 プラハで最初に受けた印象。それはも うこの街は立派な観光地であるということだった。僕は、もっと人気のない、寂しい光景をイメージとして持っていた。それはこの旅に出る前、チェコがまだ民 主化へと動き始めていた頃に、この街を訪れた人の旅行記を読み、当時は日本人どころか、観光客を受け入れて金を落としていってもらうような国内情勢ではな かったことを知ったからだ。当時のチェコスロバキアについて、首都プラハの町並みは美しいが、人間が冷酷、制度は最悪であると記していた本もあり、それから10年以上経っているとはいえ、何だがこの街を訪れるのが少し不安だったくらいである。
 
国 の体制が大きく変化を遂げる時というのは、国民の心境は複雑になるものに違いない。例えば、自分が日本の戦国時代や明治維新の頃に存在していたらどうだっ ただろうか。意見が多様化してそれぞれの集団が対立しあう国内情勢のなかを生きなければならなかったに違いない。そこには、話し合いもあれば平気で殺し合 う時代でもあった。つまり、自分はどう生きるべきか、ということを嫌でも考えさせられる時代であったと思う。この時代に名を残している人物たちは、誰もが 自分のなかに「使命」というものを背負って生きていたように思う。
 話が脱線したが、日本の戦国時代や明治維新の頃とチェコの民主化の頃では、時 代や背景が全く異なるにしても、国内情勢が乱れているという点では共通していることだと思う。まして、現代の日本のように外国人もたくさん暮している平和 で裕福な時代ではない。つまり、当時の国民というのは外国人を持て成すことに慣れていない。むしろ、外人ということで嫌悪感を抱いていた者も少なくなかっ た。
 つまり、チェコ・プラハにおいても、スロバキアとの分離・独立、そして民主化へと国が激動しようとしていた頃に訪れた日本人旅行者が、当時のプラハの印象について、「人は冷酷、制度は最悪である」と記している理由が分かる気がする。
 

 中学校の合唱祭で歌った「モルダウ」をこの街にやって来る列車の中で思い出し ていた。その曲名である美しき川モルダウに架かるカレル橋の上では、クラシックミュージックを生演奏する男性のバンドグループや、自慢のプラハの風景画を ずらりと並べる絵描きがたくさんいる。そして、ちょうど旧市街の方から歩いていくと、彼らのさらに後方には、赤い屋根がひときわ目立ち、一つ飛び抜けるよ うにして堂々と建っているプラハ城が視界に入ってくる。ここから眺めた風景は、ヨーロッパの中でも心の底から感動した。
 
  僕が一人で暢気にやって来た今日の首都プラハは、もはや街は世界各国からの観光客で賑わい、現地の人々の様子にもどこか余裕があるように思えた。この古都 が、日本の京都と姉妹都市であるということも、この街に来て初めて知った。実際、旧市街の広場では着物姿の舞子さんを見かけ、欧米人観光客の注目を浴びて いた。また、旧市庁舎の天文時計のからくりを一目見ようと、その時間が近づくと大勢の観衆がどっと集まる。その中に紛れて、まだかまだかと他の日本人旅行 者と一緒にわくわくしているならば、この国が抱えるもっと深い過去や事情が見えてこないのも当然だった。

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旅することは生きること

デンマーク王国の首都コペンハーゲン。何だかおとぎ話にでてくるような名前につい不思議な魅力を感じてしまうのは僕だけか。コペンハーゲンのことを「北欧のパリ」だという人がいるほど、その街並みは美しい。
  「旅することは生きること」。これは、かつてデンマークの童話作家アンデルセンが残した言葉だ。彼は、デンマークのオーデンセという町に生まれ、貧しい家 族のもとで育った。1819年、彼はオペラ歌手を目指すため、このコペンハーゲンにやって来た。しかし、その後挫折を繰り返してオペラ歌手になることを諦 める。バレエ団にも所属していたり、大学に通うことも出来たのだが、卒業は出来なかった。挫折を繰り返した青春時代だったが…
 その後、彼は30回以上もの海外旅行を経験し、そしておとぎ話を書き続けることに生涯を捧げた。彼は生涯独身で、童話を書くことだけではなく旅も続けた。それが彼自身にとっての生きる意味、いや、もう少し硬く言えば、自分の使命だと感じていたのではないだろうか。
 実際、彼の作品を批判する人も多いようだ。僕も彼の作品を片っ端から読破したわけではないが、彼の幼い頃の貧しい境遇を描くストーリーが多い。そこには、一種の独創的で悲劇的な彼の主張が込められているようだ。
 しかし、僕は彼の作品に対する批判がどうこうよりも、彼が童話という一つのものを彼なりに書き続けた人生に魅力を感じる。

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ある晩、ベンさんとストックホルムの街を歩いている時、彼の口からはっとさせられる日本語を聞いた。
 僕た ちが歩道を歩いていたら、酒に酔い潰れたのか、一人の男性が道端に倒れていて、うつ伏せのまま動きが全くない。その周辺には、通行人が心配そうに集まって いる。それを見たベンさんは、すぐ僕に荷物を預けてその男の所へ歩み寄って行った。まったく動揺する様子もなく、慣れた手つきで呼吸や脈をはかったり、男 の状態を確認した。やがて、救急車が到着した。ベンさんは、やって来た救急隊に「心配いらないよ」と、あっさり伝えた。
 この後、僕は彼の当然のような行為に感心し、「さすがに、慣れてるね」と、言うと、
ベンさんはこの時まで見せたことのない真剣な表情で、そして日本語でこう言った。

 「もう四年生デス。行かなくてはイケマセン」

 彼は、日本語を独学で勉強している異国の人間である。そして、まだ日本を訪れたことはないのだ。そんな彼が、こう いう日本語をぼそっと言うのだから、感心するほかない。少なくとも、日本人である僕は心を打たれた。その決して長くはない日本語の中に、彼の想いが自然に 伝わってきた。
 今でも思う。外国語をペラペラと話せるに越したことはないけども、やはりそれだけでは人を惹きつけられない。言葉には、その人の人間性や想いが現れるものだ。

 
 

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ストックホルムの貧乏

スウェーデンの首都ストックホルムは、北欧第一の商業都市であるから非常に規模の大きな街だ。どこを見渡しても、整 然とした色合いの建物と街の至るところに水路が静かに流れ込んでいる。そして、小さな帆船から大型豪華客船までじつに多くの船が停泊している。大通りから 裏通りに入ると、お洒落なカフェやパブが並び、昼時に地下にもぐるようにしてある店の奥から、楽しそうな笑い声と上品な音楽が聴こえてくるのだ。この大都 市をあの東京と比べれば、街の景観や雰囲気が国の政治や経済の中心である同じ首都だとは決して思えないだろう。
 ストックホルムに到着した翌日、 僕は世界で最初の野外博物館スカンセンに行こうと、中央駅周辺でバス停を探し回っていた。あるバス停で、一人の若い青年に声をかけた。僕が、「スカンセン の行き方を知らないか」と尋ねると、首を横に振りながら「知らないなぁ」と、答えた。その若い青年は、腹を空かしていたのか大きなパンをかじりながら、 「どこから来たんだ?」と、問い返してきた。僕は、「日本だ」と答えた。すると、数時間前、ヨーテボリの駅で出逢ったジミーに引き続き、これは何かの間違 いではないかと思ったのだが、その青年は「ニホンゴ、少し勉強してます」と、ぼそっと日本語を話し始めたではないか。
これが、ベルギー人のベンさんとの出会いであった。彼もまた日本に興味を持ってくれていて、日本語を独学している異国の若者であった。ただ一つ、ジミーと異なっている点は、ベンさんはまだ日本に行ったことがないということだった。
  ベンさんは、昨夜遅くにストックホルムにやって来たばかりだったが、結局それから泊まる宿も見つからず、外のベンチで一人横になって眠っていたらしい。翌 朝、親切な通行人に、「あなた大丈夫?」と声をかけられて目が覚めた。ベンさんは「大丈夫だ」と体を丸めながら答えた。そんな彼も祖国ベルギーでは、医科 大学の四年生であり、明後日、ストックホルムから船でフィンランドに渡り、トゥルクという街の病院で研修生として働く予定であった。
つまり、ストックホルムは観光というより、彼にとってはあくまでもフィンランドに渡る途中なのである。そんな彼が、スカンセンの行き方をこの時知っているはずもなかった。
  結局、この出会いをきっかけに、僕はスカンセンをはじめ、ストックホルム滞在中はほとんど彼と一緒に街を歩いて回った。当然、僕たちにとってこの街は外国 であるからスカンセンに行くのにも少し苦労した。しかし、同じ「外国人」であるベンさんと一緒に街を歩いていて、今までに味わったことのない感覚であった し、何よりも楽しかった。僕はベンさんと街を歩きながら、じつに「まともな」国際交流をしていたと思っている。例えば、

「シンタロー、ヨーロッパでビールの銘柄が一番多いのはどこの国か知ってるか?」

「えっ、ドイツかな!」

「違う、ベルギーだ! じゃあ、ベルギーで乾杯する時、何ていうか知ってるか?」

「えっ、何て言うんだ?」

(すると彼は、この上ない笑顔で股間に指を差しながら)

「チンチン~! 」

と、まぁこんな具合である。ベンさんは、体格も僕より一回り大きく、がっちりしていて顔立ちも男らしくて勇ましい。が、急におちょけてみせる彼の笑顔は、無邪気な腕白少年のような表情になるのだった。ベンさんは、ある時こんな質問もしてきた。

「シンタロー、日本語で金持ちの反対は何て言うんだ?」

僕は、「ビンボー」だと教えると、

「ビンボぉ~! シンタローは、ストックホルムのビンボぉ~ですネ! 」

と、彼の日本語に対する興味はますます強くなるのであった。

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ある日、ジミーが「今晩、大学の友人たちと集まるから一緒に来ないか」と、誘ってくれたので、ひょっこり付いて行くことにした。日本人留学生も含めて、10人足らずの集まりであったが、当初ジミーの友人たちにとって、いきなり現れた僕の存在は全くの謎であっただろう。
 しかし、彼らは自然に僕を歓迎してくれたのであった。この会合の共通語は日本語、時々、スウェーデン語である。
 「あ~京都に戻りたいワァ~! 」
  と、嘆くエマというスウェーデン人の陽気な女性。十年以上も日本で育ち、僕と何ら変わらないほど(いや、もしかしたら僕以上に流暢かもしれない…)日本語 をペラペラと話すトミーという青年。トミーは、最近自分が買った日本語変換可能な電子辞書を取り出して見せてくれたが、別の日本人留学生に、
「あっ、それ知ってる!トミーそれいつ買ったの? けど、そのタイプで新しいのが日本で発売してるらしいよ! 」
と、指摘されたトミーは、
「えっ! もう日本で新しいのが売ってるの? 本当に日本は速いなぁ~」
と、 呆れた様子でそう言った。トミーが言った「日本は速い」という言葉が印象的で、今でも頭に残っている。日本で十年以上も育ち、またヨーロッパ内においても 早くからテクノロジーが発展してきた北欧の人間が、「日本は速い国」だというのは、今さら言うまでもなく、日本が世界を代表する先進国として認められてい る確かな証拠だろう。

 スウェーデンでは、大学に進学するものは少数だと、ジミーは話していた。彼らは、高校卒業して選挙権を与えられて いるし、多くの者は高校卒業と同時に親元を離れて自立する。スウェーデンの優れた福祉国家は世界的に有名であるが、そうした若い世代のはやい自立を必要と した、またはそうした支援がなされている国であるようだ。
 所得税は、日本と比べものにならぬほどべら棒に高い。トミーが会合で、「所得税が高す ぎる…」と嘆いていたが、その代わり、政府から国民の生活に対して様々な援助を充実させている印象がある。例えば、高校を卒業した若い男女がアパートを借 りて同棲した場合、子どもがもしできたら政府から育児のための生活補助金が援助される。また、ゴーゼンバークの街中にあった世界民族博物館は、5階建ての モダンな建物で、世界中の民族について展示・紹介されている。もちろん、日本についての紹介もある。
この博物館にジミーと一緒に行ったのだが、入 場料は無料。誰でも気軽に入れる。日本であれば、少しお金をとられてもおかしくはなさそうな施設である。館内は、たくさんの幼い子ども達で溢れていた。ジ ミーは、「この博物館も、そのうち有料になるかもしれない」と、現在のスウェーデンの経済事情に少々不安も隠せない様子であったが、それにしても、政府と 国民が、社会のなかで一体となっている印象を持った。

 ジミーとの出会いは、日本という国を客観的に考えさせられてしまった。肝心の日本について、今までどれだけ考えたことがあっただろうか。日本から遠く離れて、少しだけ祖国を違う視点から考えることができた気がした。
 ジミーのアパートで、彼が日本語の勉強をしている最中、僕は隣でパソコンゲームをしていた。ふと僕は、今この状況が不思議で仕方ないとジミーに言うと、彼はこう呟いた。

 「一期一会やなぁ~」
 一期一会という言葉は、「モトカノに教えてもらった僕の一番好きな日本語」だそうだ。

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ジミーは、さすがに日本語の勉強に熱心である。「この漢字難しいネ」と嘆きながらも、日本の有名作家の小説を楽しそ うに読んでいた。時々、僕は漢字の読み方や意味が分らない言葉を彼に教えた。が、なぜか当の日本人でありながら緊張した。いや、それはまさに自分が日本人 だから緊張していたのだろう。まして、ジミーは自分の国にたいへん興味を持ってくれている。何も、日本語だけではなかった。
 ジミーは、毎朝の日 課として(時々、サボるようだが)、座禅を組む。彼は、大学とは別に禅連会という組織に属していて、その中でもリーダー的存在として組織をまとめているそ うだ。早朝、僕がまだのん気に熟睡している頃、部屋の片隅で黙々と座禅を組む。ジミーは、「座禅をすると、頭がすっきりするのだと誇らしげに話していた。
 日本人の中で、果たして座禅を組むことを日課としている若者はどれほどいるのだろう。
寺のお坊さんぐらいではないのか。
  スウェーデン人の彼から眺めた極東に浮かぶ島国は、一体どのように見えているのだろう。また、その興味はどこから涌いてくるのか。簡単に言ってしまえば、 日本という国が不思議な魅力を持っているからだろう。でなければ、ジミーが日本語を学ぼうとする気にもならないだろうし、座禅を組むなどはもってのほかで ある。

 明治維新を生きた我々の先祖は、押し寄せてくる西洋列強の圧力に国の存続危機を痛感した。「和洋折衷」という言葉 があるが、我が国は西洋に倣って革命を起こすべきだという考えが生まれる。日本は同じアジアである朝鮮半島にも、独立してもらわなければ困る。当時の日本 の官僚は緊急事態といわんばかりに訴えたが、当の朝鮮人たちは「弱小国が何をほざきやがる」と、相手にしない。もちろん、当時の清国もである。

 その日本がのちの日清・日露戦争で勝利し、西洋社会に初めて「西洋優位、東洋劣位」という概念を打ち破った。が、日本国民はその勝利に酔いしれ、「勝利」という言葉に洗脳された昭和の軍人が40年後には太平洋戦争で敗北する。
  これで日本もおとなしくなると強く思ったのは、当時のアメリカであっただろう。が、日本は敗戦からわずか10年でそのアメリカに次ぐ経済大国へと大躍進を 始めるのだ。当時のヨーロッパの国々は、そんな予想をすることができなかっただろう。当の日本人ですら思っていなかったかもしれない。
 こうした歴史を振り返ってみても、日本という国はやはり不思議ではないか。ジミーのような異国の人間だからこそ、日本人ですらよく知らない我が国の魅力が見えるのかもしれない。

 

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旅をした者は、旅をする者を呼ぶ

約束通り、僕はヨーテボリですっかりジミーのお世話になっていた。彼は、「いつまででも居ていいよ、狭いアパートだけど」 と、歓迎してくれたので、僕は彼のアパートに数日間転がり込んだ。彼は、何でも食べさせてくれた。スウェーデンがまだ経済的に貧しかった頃、ちょうど日本 も戦前から戦後にかけての同じような時代、彼の祖母がよく食べていたという伝統的な料理をつくってくれた。(名前は忘れたが、日本でいうおかゆのようなも ので質素な料理だ)
 そして、彼はベジタリアンであった。つまり、肉を食べないのである。ジミーはそういった宗教の信仰者かというと、そうではな いようだ。彼は「動物を食べると、何だか心が痛い」と、悲しげな様子で話していた。当初、変わった人間もいるものだと思っていたが、彼の話では、スウェー デンのベジタリアンというのは日本人が思っているほど珍しくはないそうだ。もっともごく稀に、肉だけではなく、牛やニワトリから得られる牛乳や卵も食べな い菜食主義者(ビーガン)もいるらしい。ある日、彼の行きつけであった大きなベジタリアン・レストランに連れて行ってもらい、ごちそうしてくれたことも あった。通りがかりで出逢ったどこの馬の骨とも分らない旅の人間に対して、このように親切にしてくれることは本当にありがたいことだ。数年前、ジミーもま たスウェーデンの北部あたりを列車で無銭旅行をしたという。その旅で、数少ない現地の人達に色々と助けてもらい、僕も同じようにしたいのだ、と話してい た。旅をした者は、旅をする者をこうして呼ぶのだろう。

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突然の出会い

ノルウェーから列車で国境を越え、スウェーデン西部の街ヨーテボリ(ゴーゼンバーグ)の中央駅で降りた時、また国が 変わったのだという実感はほとんどなかった。どうしても、「北欧」という一つの大きな領域でイメージを抱いていたし、その「北欧」の中を移動しているに過 ぎない。まして、旅を続けることで精一杯であったこの時の僕には、そんな違いに目を向ける余裕もなかった。
 この日、僕はヨーテボリから列車を乗 り継ぎ、東部にあるスウェーデンの首都ストックホルムに行こうとしていた。列車の待ち合わせまでしばらく時間があったので、駅内にあったコンビニの中をう ろうろとしていると、大人が一人なんとか通れそうな狭い通路で、向こう側から歩いてきた若い青年と肩がぶつかりそうになった。この時、僕は今でも疑問のま まなのだが、しばらく母国語から離れていたせいか、「すみません」という便利な言葉を発していたらしい。

 「あっ、今スミマセンって言った!日本人ダネ? 」
 

 「えっ? 」
 

と、突然その青年は嬉しそうに日本語を話し始めたではないか。ニット帽をかぶり、赤いフレームのメガネを掛けていて、まだ十月中旬であったが、首にはぐる ぐるとマフラーをしっかり巻いている。すっかり真冬の格好をしていた白い肌と長い金髪の青年は、むろん日本人ではなく、生粋のスウェーデン人だ。
  突然のことだったので、最初は少し警戒もした。旅行者の母国語をベラベラと話して好感を持たせ、最終的には悪質な犯罪を企む者がいるという話を聞いていたからだ。一人旅というのは、こうした判断をたった一人でしなければならない。肩がぶかっただけで、親しげに話しかけてきた相手を信用するか、しないか。 が、そんな不安もしばらく話しているうちにすぐ消えてしまった。
 その青年の名前はジミー。ヨーテボリの大学に通う、僕と同じ大学生であった。(この時ほど、自分が大学生であったことを忘れていた時間もなかったが…)            

 彼の話す日本語には、時々、関西弁のなまりが聞えてきた。その優しい響きが彼の人間性を表しているようだった。話 を聞くと、今年の始めから半年ほど京都の大学に交換留学をしていたという。関西のなまりは、その頃にそのまま覚えてしまったものだろう。この 時は、お互いに用事があったために長話はしなかったが、数日後、このひょんな出会いをきっかけに僕は彼とまたこの街で再会を果たすのだった。                
 ジミーは、森ばっかりだよ、という祖母の家にこれから行くところであった。僕もこれからストックホルム行く。                 
 

「あっ、そろそろ行かへんと。またヨーテボリ遊びに来て! じゃあ、スウェーデン楽しんで! 」                                                  
 彼はこの日、最後にそう言って駅のホームに走って行った。

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ベルゲンの魅力とは

雨が降り続いていた朝方、僕はオスロの街をろくに歩きもせず、西部の港町ベルゲン行きの列車に早々と乗り込んでいた。オスロからベルゲンまでは、午前中に列車に乗れば夕方には着く。その長い時間、僕は車窓からの風景に魅了され続けていた。それは、英国やアイルランド の広々とした長閑な田園風景とはまた一味違う、自然豊かで壮大な風景だ。
 真っ青な空に眩しい太陽、十月中旬ですでに雪が覆う山々、次から次へと姿を現す大きな湖とその湖畔にぽつんと建っている可愛らしい家。そして、空に向かってまっすぐ伸びているもみの木。そんな風景の中を列車は静かにゆっくりと走っていくのである。

 ベルゲンは美しい港町である。特に、フロイエン山の頂上から眺めた街の景観がいい。緑豊かな小高い山に囲まれていて、複雑な入り江がはるか向こうまで見渡すことができる。港町であるが、船で広い北海に出るまでにはかなり時間がかかりそうだ。

 僕は、街の小さな魚市場へ行った。ここは、地元の人から観光客もたくさんやってくる穴場だ。市場に並ぶ新鮮な魚介類に目を奪われる。が、僕はその新鮮な魚を見回した後、一つの小さな看板を見つけた。「We Are Speak…」に続いて、
 
 「English,French,Germany,Italy,Japanese」
  
 と、書いてある。さっそく、僕は日本語が話せるのか、市場のおじさんに試してみた。
すると、

 「ようこそイラッシャイマシタ! アリガトー、ゴザイマス! 」
 
 と、愛想のいい返事をしてくれるではないか。そしてそのおじさんは、目の前に並ぶ新鮮な小エビやサーモン、マグロなどを大きな包丁で切り始めた。

  「そこらのスーパーマーケットに売っている小エビは、あれはチューインガムだ。ここの小エビは違うぜ。サクッと噛み切れるんだ。ほら、食ってみな」

 と、おじさんは次々にその新鮮な魚をたらふく試食させてくれるのだった。ベルゲンの人々は親切である。魚市場のお じさんをはじめ、バスの運転手さん、両替所の人、観光案内所の人、宿の受付の人、時には、通行人が道に困っている僕の様子に察してくれたのか、声を掛けて くれることも度々あった。自然が豊かな街は、人の心を豊かにする力がやはりあるのだろう。

 十月中旬、ベルゲンの夜は少し寒かった。駅のホームで一人、オスロ行きの夜行列車の出発を待っていた。ホームにあ る小さなコンビニで温かいコーヒーを選んでいると、僕のすぐ後ろで、若いベルゲンの女の子が立っていた。「お先にどうぞ」と、僕が彼女に場所を譲ると、 「ありがとう!」と、にっこり笑ってくれた。そして彼女がお店を出る前、また目が合った。またにっこりと笑い、そしてそのままホームの方へ歩いて行った。

 ほんの束の間の出来事だったが、彼女の笑顔はとても印象に残っている。それでなくても、北欧の女の子というのはに こにこ笑ってくれるものだ。まさに北欧の、ベルゲンの美女であった。もうオスロ行きの夜行列車はホームに停車していた。僕は、何だが後ろめたい気持ちで列 車に乗り込んだ。

写真:フロイエン山頂上からさらに歩いて登る

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グラフセンのユースホステルで

僕は、オスロからグラフセンという小さな駅で降りた。そこから歩いて十分ほど、小高い芝生の丘の上にぽつんと建っている ユースホステルに泊まった。相部屋で、六十四歳のイタリア人男性と十六歳の若きドイツ人学生と一緒になった。もちろん、それは彼らとしばらく話してから 分ったことだ。僕が部屋に入った時、そのイタリア人のおじさんが十六歳の青年に何か一生懸命になって語りかけていた。青年もまた、真剣な表情でそれを聞い ている。やがて、そのおじさんは僕が日本人であると知ると、さらに話に熱が入り始める。話の内容はすべて理解できなかったが、ようやく歴史の話をしている のだと分った。おじさんの口から「Japan」と「Russia」という言葉が頻繁に聞えてきた。
 「ロシアの勢力は強大だった。特に東欧諸国はその影響を受けた。しかし、日本という国がロシアに勝った。あの勝利は、我々に大きな意味をもたらした」
 と、そのおじさんは坦々と「日露戦争」について語っていたのだ。やがて我々は負けた、とも言っていた。我々とは、今この部屋にいる我々の国のことだ、というように僕とドイツ人の青年にそれぞれ視線を送っていた。
 この話の後、おじさんは「俺の日本史好きは、息子の影響さ」と、そんなことを話していたが、彼の息子は日本の大学に留学経験があるらしい。その頃、日本史に大変興味を持ち始めたのだという。なるほど、我々もイタリアの歴史を知らんとあかん。
  そのおじさんの熱弁を聞いていたドイツ人の若き青年は、耳元がくるくるとカールした癖毛で、悪さひとつしなそうな好青年の顔である。実のところ、彼はいま 音楽学校に通っていて、将来は指揮者になりたいのだという大きな夢を持っていた。なるほど、まずは姿から真似をしていくことが肝要である。やがて、ひょっ としたらこの青年がバッハ二世と称えられる日がくるかもしれない。

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北欧へ

オスロ空港の駅で、中央駅に向かう列車を待っていた時、ロンドンからやって来たせいか、駅のプラットホームがえらく静かに 感じた。ここはノルウェーの首都オスロの空港に接した大きな駅であるし、ホームには人もそれなりにいるのである。それもそのはずだ。この広々とした駅で停 車している列車が突然、音も立てず動き出した。すると、他の列車がまた静かにホームにやって来る。駅員の姿は、探すのに苦労するほど見かけない。まして、 何番線にどこ行きの列車が参ります、というような乗車案内のアナウンスも聞えてこない。
 僕が乗り込んだ列車もまた不意を衝くかのように、すっと 動き始めた。僕は思わず、「おぉ~」という驚く声と一緒に背もたれから体が起き上がってしまった。あの東京近郊の騒がしい駅の環境に体が慣れていたせい か、この日から幾度となく利用したヨーロッパの鉄道環境に改めて驚かされた瞬間だった。こうした駅の環境一つとってみても、その国の文化や国民性を垣間見 ることができると思う。 
 日本の都内近郊の駅では発車のベルが鳴り響き、駅でも電車の中でも絶えず駅員による親切な乗車アナウンスが流れ、「お 客様」に対するサービスが行き届いている。それに比べれば、このオスロの駅(というよりはヨーロッパ全体)はあまりに静かであった。これは、日本のサービ ス視点から見れば少し不親切にも見えるかもしれない。例えば、日本の電車内で「次は、東京です。お出口は左側です。何線、何線はお乗換えです。お忘れ物な いようご注意ください」という当たり前のように聞き流しているアナウンスが、ある日まったく聞えてこなくなったらどうだろう。また、電車がたった数分遅れ ただけで「皆様にはご迷惑をお掛けして申し訳けございません」というアナウンスを車掌がしなければ、クレームをいう人がでてくるだろう。それはある意味、 日本が古くから集団行動や協調性を大事にしており、質の高いサービスが行き届いている国である証明だ。
 逆にヨーロッパでは、個人と個人が話し 合って理解する、という商業思想が古くから生まれ、個々が責任をしっかり持つという考え方がやはりある。どちらも「お客様」が利用するのは変わらないが、 その前提には列車はお客様個人の責任で利用してください、というのがヨーロッパで、日本はお客様はどうぞ安心してご利用ください、ということだろう。 だ からといって、僕は日本の鉄道サービスの優越を語っているわけではない。むしろ、僕はオスロ空港で列車に乗り込んでから上機嫌だった。それは、やがて乗車 券の確認にやって来た金髪で白い肌の若い女性車掌が、「トキ!トキ!(ありがとう!)」と言いながら最高のにこにこ笑顔だったからだ。笑顔は、理屈抜き だ。

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イアンさんとの別れ

イアンさんの家に戻り、しばらくするとイアンさんの奥さんであるレスリーさんが仕事から帰ってこられた。大分遅い時間であ る。もちろん、レスリーさんとはこの時が初対面であったが、そう感じさせないほど明るく陽気な方であった。イアンさんのすらっとした体型とは対照的な、失 礼な話だが少しぽっちゃりとした体型とにこにこ笑顔は大変親しみやすかった。おしゃべりがお好きなようで、僕はたくさんの質問を受けた。
 そんな レスリーさんも加わって、みんなでしばらく話をしていると、やがてイアンさんとリチャード君が、「先に寝させてもらうよ」と、レスリーさんと熱い抱擁を交 した。そして、イアンさんとリチャード君も、がっちりとハグをしてお休みになった。僕にとって、それはやはり新鮮な光景だった。日本の我が家庭では、この ようなことはしないのだから。
 こういう習慣というのは、やはりイギリスの、いや西洋社会の特質ではないか。こういう光景はアメリカでもよく見か けた。彼らの意思表示は、はっきりと言葉や体を使って表現する。我々日本人は、言わなくても分るだろうという、察する文化を持っている国だ。それが、我々 の美徳として考えられている独特な文化である。どちらが良いか悪いかではない。僕は、素直にこれがイギリスの家庭なのだなぁと思った。
 依然、僕とレスリーさんの会話は続いている。
 「明日、生まれて初めてロンドンに行きます」
 と、僕がレスリーさんに伝えると、
 「あら、楽しみね! ちょっと待ってなさい」
  と、彼女はリビングの奥からロンドン近郊の地図や観光案内パンフレットなどをどっさり持ってきてくれた。そして、ロンドンの地図を広げては、お勧めのス ポットに赤い印を付けてくれた。仕事で夜遅くに帰ってきたにも関わらず、一生懸命話をしてくれた。ありがたい話だ。しばらくして、改めてロンドンの地図を 見渡した時、地図は一面真っ赤になっていた。
 「あなた、明日は行くところがたくさんあって忙しいわね! 」
 と、大笑いされてしまった。楽しい方であった。
  翌朝の朝、イアンさんとリチャード君が、車でバーミンガムの駅まで送ってくれた。ロンドン行きの乗車券を買い(イギリスはユーレイルバスが使えず、おまけ に運賃が高かったが)、彼らは駅のホームまで一緒に付いて来てくれた。そろそろ、お別れの時である。僕は列車に乗り込む前、
 「今度は、是非とも日本に遊びに来てください! 親父も待ってます」
  と、イアンさんにそう伝えた。まさか、この日からちょうど一年後にイアンさんが来日するとは、この時知るよしもない。列車が動き始めると、窓越しから彼ら に手を振った。彼らも笑顔で手を振ってくれた。やがて、彼らの姿が見えなくなってしまった時、僕はついに感極まって涙が溢れてきた。たった数日間、一緒に いただけで君は涙を流すのかと思うだろう。
 僕は素直に彼らの持て成しに感動したのだ。そして自然と涙がこぼれたのだ。イアンさんは、それほど「英国の紳士」であった。

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町のイングリッシュパブ

彼のまさに生きた英語を僕はほとんど聞く一方であったが、そうこう話を続けていると、やがてイアンさんの家に到着した。イ アンさんの息子リチャード君も玄関から出迎えてくれた。幸運にも、彼はたまたま実家に帰って来ていたのだ。体も大きく、僕よりも五歳ほど年上だったが、そ れ以上の貫禄がある。
 少しの間。実にシンプルで落ち着いたリビングでくつろがせてもらった。その綺麗なリビングの片隅に、彼のCDコレクションが置いてあった。イアンさんが、
 「好きなCDを選んで流していいよ」
 と、言ってくれたので、僕はリバプールに滞在していたこともあって、ビートルズのアルバムをさっそく流してもらった。
 英国の家庭で聴く、英国出身不滅のロックバンドの歌声。そして僕のすぐ隣で、英国の紳士が曲に合わせて陽気に口ずさんでいる。何と素晴らしい光景だろうかと思った。
 僕とイアンさんが、ビートルズに酔わされている間、リチャード君は夕食の準備に忙しかった。夕食は彼の特性イタリアンパスタであった。空腹続きであった僕にとって、それはご馳走そのものである。イアンさんは、
 「僕は料理はする方だけど、リチャードが帰って来ている時は、任せっきりなんだ」
 と、嬉しそうに話していたが、片付けとなればそれはイアンさんの仕事であった。
  夕食後、「この機会に、三人で近くのイングリッシュパブに行こう」と、僕を連れて行ってくれた。車に乗り込み、彼ら馴染みのイングリッシュパブに向かっ た。しかし、外はもう真っ暗であり、車のヘッドライトだけが頼りだった。街灯というものは、この辺りの道路にはない。ただヘッドライトに照らされて、風に なびく小高い茂みが両側に見える。その茂みは、車の屋根よりも高く伸びており、まるでトンネルの中を走っているように思えた。
 やがて暗闇の中に、突如一つの大きな明かりが見え始める。街の人達が日常通うイングリッシュ・パブである。田園の中にぽつんと浮かぶ不夜城ともいえる。
 店内は広々していて、カウンターと不規則に並んだテーブル席、演奏ステージに赤茶色のレンガ造りで大きな暖炉もある。じつに家庭的ともいえる落ち着いたパブは、冬でもたくさん人が来るのだろう。僕は、アルコール度の軽いりんご味のビールをイアンさんに勧めてもらった。
  イアンさんと僕の親父は、かれこれ四年近くも会っていない。しかも、仕事以外の場で二人でゆっくり話した機会はたった二、三回である。しかし、今でもプラ イベートで連絡を取り合っている。同年ということもあって、気が合ったのだろう。そして、あとはこのイアンさんの人柄であるに違いない。
 リチャード君は優秀だ。なんせ、イギリスの名門オックスフォード大学を卒業している。
 「ヨーロッパはどこを見て回る予定だい? 是非、ここに行って見るといい」
  と、彼は神にヨーロッパの中でお勧めの国や街の名前をずらりと書いてくれた。ほとんど彼が訪れたことのある場所ばかり。さすがだなぁと思った。イギリス は、日本と同じ島国とはいえ、飛行機に乗ってしまえば、ヨーロッパ諸国ならたった数時間で行けてしまう。おまけにほとんどの国が陸続きで密集している。
 改めて言うまでもないが、僕は酒が飲める体質ではない。にも関わらず、ワンパイントを飲み尽くした。酒好きの人にとれば笑い話だろうが、僕はすでに酔いが回ってきていた。
 すると、イアンさんは穏やかな表情で言った。
 「さぁ、二軒目に行こう!」
 再び、車は暗闇の田園の中を走り始める。我々はまた違うイングリッシュパブに向かう。
僕の英語もパンク寸前であったが、それ以上に体もパンク寸前であった。二軒目では、僕はハーフパイントにした。情けない話だ。
  一つ気掛かりだった事は、イアンさんの家へ戻る時、イアンさんは平気で車を運転していたことである。日本であれば、飲酒運転の規制は非常に厳しい。(厳し くなってきたともいえるが)イアンさんは、「少量なら大丈夫、大丈夫」と、先ほどより酒のせいで楽しそうに言っていたが、確かに、この真っ暗な田園の中に 警察が取り締まっているとも思えない。実際に、イギリスではワンパイントまでならまぁ許そうという法律があるらしいが、実際にそれはどこまで厳しいもので あるのかは良く分からない。しかしである。万が一飲酒運転で事故でも起こした場合は、それは問答無用で厳しい処罰が待っている。これはイギリスをはじめ、 西洋社会にある「責任」に対する考え方だろう。「自己責任」というべきものが、強く求められる社会なのだ。

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イアンさんとの出会い

イギリスの列車に乗って思うことは、車窓から外を眺めていると、緩やかな丘陵に長閑な田園風景がどこまでも広がって いることだ。列車のすぐそばで、牛や羊のたちが群れをなしてのんびりと過ごしている。彼らは列車から驚くほど近い距離で寝そべっていることもある。列車が 次の駅から次の駅と走る間、そんな絵に描いたような風景がひたすら続くのである。
 その日、僕はあるイギリス人の方を訪ねようと、バーミンガムから列車でワーリィックという小さな地方にある町に向かっていた。
 親父が仕事を通じて知り合ったイギリス人のイアン・ジョーンズさんとは、まだお会いしたことはなかったが、日本にいる時から話は良く聞いていたものだ。せっかくの機会に彼とお会いしたいと思い、二、三日前に連絡をしていたのだ。今思えば、急な話であった。
 ワーリィックの駅に着くと、バックパックを背負う僕の姿にすぐ気が付いてくれたのか、シルバーのフォードからスーツ姿のすらっとした男性が飛び出してきてくれた。イアンさんである。待たせたことをお詫びしようとしたが、

 「よく来てくれたね! さぁどうぞ、車に乗って行きましょう」

 この時、彼と初対面で一体どんな人なのだろうかと胸を躍らしていたが、その穏やかな笑顔と立ち振る舞い、そしてソフトな声を聞いて、僕は一瞬で彼の人情を感じることができたのである。
 右ハンドルのフォードが、イングランドの田園の中を走り始めた。アイルランドの田園風景を思い出した。やっぱり、どこか似ている景色だ。

 「すごい道を走りますね。いつもこの道を車で走るんですか?」

 と、でたらめな英語で聞いてみた。

 「仕事では電車はほとんど使わないからね。毎日、車で40分くらいかけて職場に行くんだ。バイクもたまに乗るけど、最近は雨ばっかりでしばらく乗ってないなぁ」

 と、丁寧な英語で話をしてくれた。イアンさんがバイクに乗っているということは、日本にいる頃から知っていた。彼 の愛車は、SUSUKI・バンディット1200だ。そして、イアンさんがまだ髪がふさふさであった若い頃の愛車が、YAMAHA・XS650である。どち らも世界を代表する日本のオートバイメーカーであり、特にXS650は名車である。(ちなみに、現在の僕の愛車はYAMAHA・XS650スペシャルであ る)
 彼と同じく、いや、まだまだその貫禄が足りないバイク乗りである僕にとっては、じつに嬉しいことであった。イアンさんの家に滞在中、実際に彼の愛車を披露してもらった。天気がよければ明日少し走りに行こう、という予定であったのだが、翌日はあいにく雨だった。
 とにかく、親父を通じて、「バイク」は僕とイアンさんの共通の趣味だったのだ。

 

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リバプールに吹く静かな風

リバプールは、世界に誇るロック・グループ「ビートルズ」の故郷として有名である。この街を見て歩き始めたのは、到着の翌日だった。それにしても、昨夜泊まった安宿は夜通し隣の部屋から意味不明の音楽が大音量で流れ続けていたせいで、全く眠れなかった。
 朝、僕はさっさとその宿を去り、リバープールで唯一のユースホステルへ向かった。各フロアの内装は、ビートルズのポスターなどで統一されている。昨夜の宿のせいか、僕はここが超豪華ホテルのように感じてしまった。

 このユースホステルから少し北へ歩くと、アルバート・ドックと呼ばれる静観な波止場が、五階建てのレンガ造りで、 赤茶色のシンプルな建物に囲まれるようにしてひっそり見え始める。その建物の後方には、ちょうどフェリーから眺めていた巨大で堂々たる建築物がそびえ建っ ている。波止場を抜けて目の前まで行くと、保険会社や税関などと意味する単語が書いてある。しかし、保険会社にしては随分と立派だなぁと関心していた。
 しかし、これらはどれも十九世紀に建造され、当時は違う目的で使われていたという歴史を知った。現在においても、古い街並みを保全し、国の権威あるものとして維持していく徹底ぶりは、イギリスだけでなく、西洋社会がつくった掟のようなものかもしれない。

 リバプールを発つその日、僕はあのマシュー・ストリートに立ち寄った。かつて、ビートルズがまだ世界にその名を広げる以前、彼らが三百回近くも演奏したと言われる
Carven Pub」 がこの通りにある。当時、彼らが演奏するという日は決まって、この狭い通りはすぐさま若者達の大行列となった。(当時の写真も、アルバートドックにある ビートルズ博物館に多数展示されている)それほど当時の若者にとって、このパブで彼らの演奏を聴くことが何よりの青春だった。パブの近くまで行くと、古い レンガ造りのブロック一つ一つに、かつてここで演奏したバンドたちの名前が刻まれている。彼らの名前をすぐ見つけることが出来た。
 「ポール、ジョージハリスン、ジョンレノン、リンゴスター」
  彼らが生まれたのは、第二次世界大戦中の頃だ。当時は世界中の外国船が行き交っていたこのリバプールも、多大な被害を受けている。戦後の貧しい生活は、ど この国でも共通していたことであり、そんな状況のなか彼らはこの街に生まれ、出会い、そして音楽という新しい風を巻き起こした。
 やがて、彼らはドイツのハンブルクで音楽修行に励み、そこで音楽の実力をあげた。やがてヨーロッパ各国からアメリカへ渡り、そして当時、高度成長期真っ只中であった日本にもやって来た。そうした彼らの足跡をたどる原点が、この「Carven Pub」とも言って良いだろう。
  彼らが来日した時、もはや彼らは単なる「音楽バンド」というより、世界中に新世代の旋風を巻き起こした大きな「社会現象」となっていた。彼らが来日した時 の映像が博物館で放映されていたが、当時の日本人(特に若い女性だろう)のはしゃぎっぷりは凄い。感動のあまり倒れて泣いている者もいるくらい。当時の日 本の情勢を良く示しているとも思う。残念ながら、僕はその大きな「社会現象」をこのなまの目で見ることはできなかった。
 が、昼時のせいか、当時 若者であふれていたマシュー・ストリートは、本当にこの通りだったのかと疑ってしまうほど、人通りも少なくがらんとしていた。むしろ、このリバプールの街 全体でそのような印象を受けた。僕が、この街にやって来たのは、少し遅かったかもしれない。かつての「社会現象」を生み出した街はどこか寂しげで、本当に 落ち着いていて静かだった。

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リバプールへ

船は、リバプールへ近づいている。雨も上がり、外のデッキへ再び出ると、遠くにリバプールの顔といえる宮殿のような建築物が並んでいるのが見えた。デッキ に一人でいた欧米人の女の子と目が合うと、にっこり笑って挨拶をしてきてくれた。スコットランドに留学しているというスイス人の学生だった。ダブリンに は、大学の休みを利用して旅行に来ていたそうだ。僕もこれから世界を旅するのだと話すと、彼女は驚き、そして安宿情報が満載のネットサイトを紙に書いてく れるのだった。愛想が良く、純朴さが顔に溢れている彼女の故郷スイスという国をこの時は全く知るよしもなかった。
  やがて、船がリバプール港に到着した。すると彼女は、大きなバックパックとスーツケース、ハンドバックに大学で使う資材など、次々と一人で持ち始めた。僕 は、それほど大きくもないバックパックを一つ背負っているだけである。彼女の近くで感心しながら見ていたイギリス人のおじさんと僕は、二人がかりで彼女の 荷物を持ってあげたのだが、スーツケースはとてつもなく重かった。一体何を入れればあれほど重くなるのだろうか。女性の一人旅は大変だな。同時に、俺もこ れから頑張らなくてはいけないと思った。

下 船すると、僕たち数十名の徒歩組は大きなバンに乗り込み、入国審査官が待ち構えるゲートへ向かった。国が変わったのだから当然のことであった。内心では、 イギリスを目の前に少し緊張しながらも、まぁパスポートを見せれば仕舞いだと言い聞かせて向かったが、やっぱり駄目だった。この日本人の若僧をそう簡単に 通してくれなかったのである。僕がパスポートを見せると、さも待ち構えていたかのように、
 
 「ちょっと、こっちへ来なさい」

と、別室 に行き、まもなく五、六人ほどの英国警察官に囲まれながら取調べを受ける羽目になった。彼らの質問というのは、「これからどこへ行くのか」、「お金はある のか」、「英語は話せるのか」、「航空券を見せなさい」、という単純なものであったが、僕は適当な英単語を並べて必死に訴えた。そして、長い厳密な審査の 末、最終的に、
 
 「
No  Problem!! 

僕はついに解放された。彼らにとって、隣国アイルランドから僕のようなアジアの人間が飛行機でならともかく、船でやってくるのはまだまだ少数だったのだろ う。そして、あのニューヨークで起きた同時多発テロ以降、特にアメリカやイギリスにおいては、僕のようなアジア系から中東あたりの外国人に対する視線がか なり厳しいものになっているのも事実である。実際、旅行中におけるアメリカやイギリスでの出入国審査では、僕は一緒に並んでいた欧米人と比べて差別のよう な扱いをされたものだ。いつどこで、またあのような悲惨なテロが勃発するか分からない世界事情になってしまった以上、もはや仕方のないことでもある。が、 彼らは単に僕のような黄色の肌に黒い髪というような全く異民族の人間に対してのみ、厳重な注意を払っていたようにも思えてならなかった。
  この日以来、僕は出入国審査の度に憂鬱になった。ようやく入国を許可され、ロビーへ出ると例のスイス人の女の子が笑いながら待ってくれている、というよう な感動的なシーンはなく、むしろ、さっぱり人がいなかった。外へ出ると、空は再び黒い雨雲で覆われていて、今にも雨が降りそうである。僕は道も分からず に、しばらくそこで立ち尽くしていると、まもなく、先ほどの警察官たちがやって来た。

「道が分からないだろう。パトロールに行くから、駅まで一緒に乗せて行ってやるぞ」と、僕を大きなバンに乗せてくれた。

車内は、英国警察官五名と、日本人若僧旅行者一名。

生まれて初めての英国、そしてこれから世界を旅するという矢先に何だが妙な気分であったが、彼らは先ほどとうって変わり、優しい表情をしていて親切であった。この僕が、悪意の無い純粋な旅行者だということをやっと理解してくれたようである。
 リバプールから少し離れた郊外にある駅前で、僕は彼らに礼を告げて別れた。そしてついに一人になった。依然、天気は良くない。黒い空から再び雨がぽつぽつと降り始めていた。ようやく、僕の世界放浪の旅が始まった。

 

 

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アイルランドを発つ

2006年秋、僕はヨーロッパ西の果てに浮かぶ小さな島国、アイルランドにいた。まだ外も薄暗い早朝、僕は首都ダブリンの港から一隻のフェリーに乗り込ん だ。行き先は、地図で見ると親子のように引っ付きそうな隣国イギリスの港町リバプールである。アイルランドでの短期留学を経て、僕はそのままヨーロッパ、 アメリカ、アジアを見て周り、日本に帰るという計画を立てたのだった。船は、まもなく出航しようとしている。
 アイルランドと聞いて、真っ先に考 えてしまうことは、隣国イギリスの存在であるだろう。あらゆる情報が世界中を網羅している現代においても、アイルランドをイギリスの一部、またはイギリス と似たような国だと思っている人も少なくないのではないか。そんな自分も両国の長い歴史について深く考えたことはなかった。

 それにしても、旅の幕開けには天気が悪い。空はどんより曇っていて、時々、激しく雨が降った。だが、アイルランド ではこのような天気は別に珍しいことではないだろう。ダブリン滞在中は、毎日のように雨が降った。そして、雨が降ってきたと思えばすぐ晴れ、そしてまた雨 が降る。一日は、大抵そんな繰り返しだった気がする。そうした天候の変化に慣れている現地の人々は、突然の雨にあまり動じている様子はなかった。頭から フードを被るくらいで、傘を差す人はあまり見かけなかった。         

 外のデッキへ出た。思った以上に風が強く、顔面に大きな雨粒がチクチク突き刺さってくる。これが旅の幕開けか、と思った。それでも不思議なもので、船出の時というのは、無性に外に出たくなるのだった。僕は、着込んでいたダウンのフードを思いっきり頭から被った。
 大きな汽笛が数回鳴り響いた。とにかく、これからたった一人で世界を旅するという自由と解放感を味わう一方、とてつもなく不安であった。そして、このアイルランドを離れなければならない寂しさを、このばっとしない空の下で感じた。
  イギリスとアイルランドの隙間にあるアイリッシュ海というのは、本当にエメラルド・グリーンの色をしていて、日本の青い海に見慣れていたためか、とても神秘的に見えてしまった。
 今 日は、この雨と強風のせいで海が少し荒れている。その海の色と同化した小高い丘には、絵に描いたような長閑な田園風景が広がっている。晴れた日に遠くから 見渡せば、緑一色のキャンバスの上に、羊や牛の群れがぽつぽつと白い雲のような模様に見えるのだ。そんな風景一つとってみても、このアイルランドという国 がとても印象に残っている。
 アイルランド人の酒好き、お喋り好きは有名だと聞いていたが、本当にそうである。ある酒場では、昼間からスーツを着た男達が群れをなして、楽しそ うに酒を飲んでいる。昼間からパブの前で、酒を交して楽しそうにお喋りをしている彼らを見ていると、一体この国を支えているのは誰なのか、と思えてくる。
 ダブリンのパブで聴いたアイリッシュミュージックほど、僕が聴き惚れてしまったものはない。もはや、ダブリンの街には無数に点在する彼らの日常の 場であるが、夜、そこに行けば、毎日のように聴くことができるだろう。彼らの悲惨な歴史を忘れてしまうほど、それは明るく陽気な歌が多い。そして、彼らは また踊る。独特のステップを踏むアイリッシュ・ダンスは、彼らの伝統的な文化の一つである。ある老婦人は、ステージ最前列の椅子に腰掛け、曲に合わせてス テップを踏んでいる。子ども達は腕を組みながらぐるぐると踊っている。みんなで楽しく「カントリーロード」を歌う。老若男女問わず、誰でも楽しめる雰囲気がある。そんな彼らのパブに、僕はただ感動していた。

 

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