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アイリッシュと共に1

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飛行機がちょうどバンクーバー空港に近づいた時、上空から見えた街は一面、真っ白であった。十二月初旬、冬のカナダに降り立つ直前である。

バ ンクーバー空港は、今までのどこの国の空港よりも、シンプルで落ち着いた雰囲気がある。その大自然をイメージした空間(階段の横には、滝のように流れる水 のアートがあった)は、いかにもカナダらしいと思った。これまでの空港というのは大抵、大都市であったが、多くの人が忙しそうにしていたし、騒がしいもの だった。本来、空港とはそんな所でもあるのかもしれないが、このバンクーバー空港の人間はどこか落ち着いている。というよりは、この品のある空間が、人を 落ち着かせているのだろう。

こ の旅で、僕が最も苦手としていた入国審査官であるが、若いそのお兄さんは、真冬の格好をしていた僕に対して、「滞在中、スノーボードはするのか? お前は 上手か?」と、親しげに語りかけてくるのだった。僕は、そんなウィンタースポーツを楽しむ目的も余裕もなかったから、「残念ながら今回は金がなくて、出来 そうにない」と、答えると、「じゃあ、何をするんだ? 女の子の尻でも追いかけるのか?」と、問いかけてくるのであった。入国審査という厳重な場で、こう いうユーモアのある審査官に出会う確率は非常に少ないといっていいだろう。外国人を歓迎する気持ちもさらさら感じられない表情の審査官もいれば、パスポー トをちゃんとこちらの手に渡して返さない審査官もいるのである。しかし、ごく稀に、今回のような型にはまらない柔軟で温厚な審査官もいらっしゃる。僕は、 とても新鮮な気持ちで入国を果たした。これ以降、この街でたった数秒でも言葉を交した人達の親切心とフレンドリーな人情は変わらなかった。

気 分良く、空港から外のバスターミナルに出た時、震えるほどの寒さが襲ってきた。スキーやスノーボードの板を抱える欧米人の姿が目立つ。さすがは、本場であ る。それを目的にこの国にやってくる者が大勢いるなかで、約一名、この街で一体何をしようかと考えながらバスを待つ者がいた。

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ニューヨークの記念イベント2

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毎年クリスマスに飾られるあの巨大なクリスマスツリーは、ニューヨークの名物ともいえるが、そのクリスマスツリーの点灯セレモニーがニューヨーク滞在中にあった。この旅人とも暇人ともいえる僕は行くことにした。

夕方、恐る恐るロックフェラーセンターの方へ歩いていくと、人混みの流れに逆らえず、気が付けば僕は大衆の中の一人になっていた。目の前には、大きなモニ ター画面が設置されている。この狭いロックフェラーセンターの付近では、世界中からの観光客で溢れているから、全ての人が直接ツリーの点灯する瞬間を拝見 できるなんてことはない。この大画面を通してである。そんな僕もモニター組みの一人であったが、セレモニーに招かれた有名歌手らのクリスマスソングは、聴 いているだけでやはり迫力があった。ライオネル・リッチーやエンヤの歌声が印象に残っている。

彼らのステージが終わると、いよいよ点灯である。観衆のカウントダウンが始まった。数年前、テレビで見たニューヨークの年明けの雰囲気がこの瞬間にあった。このまま年が明けるのではないかと錯覚したくらいである。一瞬にして大きなツリーが鮮やかに浮かび上がった。

だ が、この点灯の後が大変だった。モニター組みは一斉にその綺麗なツリーを一目見ようと大移動するのである。そもそも、それが今日のメインイベントでもある から仕方ない。僕は、流れに身を任せるうちに、(いや、見たいという気持ちもあってだが…)ようやくツリーの目の前に着いた。そして、その本当に巨大で綺 麗なツリーを間近にした時、ふと周りを見渡した。男の一人なんてものは何処にもいなかった。この時、一人旅の良さを十分に味わっていたつもりだったが、こ ういう場所の孤独はさすがに辛いものがある。一人旅は一人旅らしく、それにふさわしい場所を選ばなければならないのか…

 

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ニューヨークの記念イベント

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「い い時期にニューヨークに来たね」と、宮脇さんから言われていたのだが、本当に、良い時期だったのかもしれない。僕が滞在中、ニューヨークで様々な年間行事 があった。その一つに、メーシーズという大型デパートが主催する感謝祭パレードがあった。特に、予定というものが無いに等しかった僕は、さっそくそれを見 に行くことにした。

あ いにく、その日は朝から雨である。ブロードウェイに到着すると、歩道一帯が人の大行列であった。NY警察官が至る所で道路規制をしており、歩行者に対して 必死に声をかけていた。果たして、肝心のパレードは、この碁盤の目のようにしてある通りのどこを通るのか。雨の中、カッパを着込んで必死に歩き回る大人と 子どもたち。せっかくのパレードを絶好の場所から見ようと歩き回るカップルたち。そんな人の波に揉まれながら、僕はやっとパレードの一部を垣間見ることが できた。白い軍服と帽子を身につけた青年たちが、ラッパなどの楽器をそれぞれ吹きながら、アメリカ行進曲と共に整然と行進していた。そして、さすがは大国 アメリカを思わせる巨大なスヌーピーのバルーンが、建物の影から現れると観衆から歓声が上がった。NY警察官は大変である。大きな声で、「立ち止まらずに 歩いてくれ! さぁ歩いてくれ! 」と、必死に呼びかけていたが、観衆はそう簡単に従ってくれない。

こ の感謝祭パレードの日、それは一年の感謝祭ともあって、ニューヨークにある大型デパートから小さなお店が日本の正月のようにぴたりとお休みになる。パレー ドが終わった後、僕はミッドタウン周辺を歩いたが、やはりどこの通りも人影が少なく、立ち並ぶお店のシャッターはほとんど閉まっていて、雨に打たれた ニューヨークタイムズが道端にぴったりとくっついていた。先ほどのパレードが嘘であるかのように、ニューヨークは静まり返っていた。

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親父の親友、宮脇さんとの出会い2

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 当時、親父がヨーロッパ放浪へと旅立つ前、宮脇さんと親父は一緒に商工会議所が主催していた青年の船に乗り、異文 化圏の青年たちとの交流を目的として台湾、香港、フィリピンなどを周遊した。宮脇さんたちは、その航海中の船上で音楽を演奏し、場の雰囲気を和ませるとい う任務があったのだが、何よりも宮脇さんと親父にとって初めての海外渡航であった。
 長い時間をかけて、ゆっくりと船が外国へ近づいてゆく。やが て、船のデッキから陸が見え始めた。初めて見た外国に二人は感動し、興奮しっぱなしだったと語ってくれた。(ちなみに、宮脇さんはこの船で奥さんとめぐり 合っている。親父の話によれば、宮脇さんの完全な一目惚れであったと聞いているが、何ともロマンチックな話である)

 今では海外旅行はもう娯楽の一つになっていて、誰でも行ける時代になった。だが、今から30年以上も前となると、まだ外国に行ったことのない人の方が圧倒的に多かっただろうし、まして飛行機も日本からヨーロッパまで現在のように飛んでいない時代である。
 僕の旅は、大陸内を除けば大半が飛行機での移動であった、確かに早くて便利であるが、外国がもっとじわじわと近づいてくる船旅に不思議な魅力を感じた。

 親父は、この青年の船で日本に帰国してまもなく、一人でヨーロッパへと旅立った。親父がまた外国に行くと聞いた宮脇さんは、当時の心境をこう話していた。

「あいつがまた外国に行くと聞いて、心境が二つあった。一つは、何や俺を置いてまた外国に行ってしまうんか、しばらく会えへんなぁという純粋な寂しさ。もう一つは、俺も外国に行きたいのにあいつ先に行きやがったなぁ、俺も絶対にまた外国行くぞという嫉妬心やね」

当時をそう振り返る宮脇さんであったが、現在はニューヨークに滞在してもう6年が経ち、ニューヨークに滞在する前は イタリアにも長期滞在していたほどだ。「イタリアは、僕の第二の故郷や」と、話していたのが印象的であった。そんな宮脇さんは、若き頃の夢を今まさに全う している。
 後にも先にも、僕はこの日食べたとんかつの味を忘れてはいない。次回は、日本でたこ焼きパーティを開く約束をした。宮脇さんは「悪いけど食べまくるで!」と話していた。そろそろ、宮脇さんが仕事に戻らなければならない時、最後に宮脇さんはこんなことも言っていた。

「心太郎君ね、今は良く分からないと思うけど、自分の親友の息子がこうやって訪ねて来てくれるっていうのは不思議なもんやで~」
僕も、そんな不思議な気持ちが分かる親父になりたい。

 

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親父の親友、宮脇さんとの出会い1

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 ニューヨークに滞在中、親父の大学時代からの親友である宮脇さんとお会いすることができた。宮脇さんは、仕事の関係で6年もニューヨークに海外赴任している方だ。

「うまいもん食わしてくれるで!」という親父の奨励もあって、僕はさっそく宮脇さんにメールを送った。すると、すぐに返事が返ってきた。
 「Welcome New York! さっそくですが、明日のランチをどうですか? 何が食べたいですか? トンカツ、魚、天ぷら、遠慮なく! 」
これが、まだ一度もお会いした事のなかった宮脇さんからの記念すべきメールである。
 翌日、僕は5番街にあるトンカツ専門店で宮脇さんと待ち合わせをすることになった。外でしばらく待っていると、店内から「なんだぁ~外にいたの? さぁ寒いから中に入って! 」 と、親父と似た白髪頭で、優しそうなおじちゃんが出てきた。宮脇さんとの出会いである。
 そして宮脇さんと話を始めると同時に、、僕の目の前にはとんかつフルコースが持て成された。格別だった。味噌汁の味、ご飯とトンカツの味はこれまでの旅中で食べたどんなものよりも最高だった。
 当たり前だが、昼時の店内はスーツを着たニューヨーカーが目立つ。だが、初対面の宮脇さんと僕は「日本語」という共通語で語りあえるのだ。自分がニューヨークにいることをついつい忘れてしまいそうな時間であった。
  この貴重な機会に、僕は宮脇さんの青春時代の話をしっかり聞かせてもらった。今から30年以上も昔、僕の親父とは大学時代に高校の友人を通じて知り合っ た。それから親父と会えば当たり前のように歌を歌っていたらしい。夜中の大学内で、二人でギターを片手に思いっきり歌っていたら、近くの住民から「やかま しい~!」と、野次が飛んでくることもあったそうだ。

「それでもお構いなしに歌ってたなぁ」と、宮脇さんは懐かしそうに当時を振り返っていた。

 僕は、バックから家族の写真を取り出して宮脇さんに見せた。すると、親父を指差して、

 「このおじいちゃんは誰や? 西川はどこや?これか!(それは確かに似ているが、僕の兄貴である) あぁなるほど、この時はカメラ撮ってたんか!」

と、楽しそうに冗談を言っていたのだが、改めて写真に写っている「おじいちゃん」を見てしみじみとこう言った。

 「西川老けたなぁ~。まぁお互い様やろうけど!」

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アメリカの大都市へ

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 ロンドンから大西洋を越えて、もうじきJFK空港に着陸するという時、機内の窓からマンハッタン島の摩天楼がうっすらと見えた。それが生まれて初めてなまで見た「アメリカ」であった。上空から見えたニューヨークの近代的な風景は、ヨーロッパとはまた違う強烈な印象が今でも残っている。

 地図で 見ると、あの広大な国土を持つ多民族国家を目の前にして、内心で震えるような緊張感を味わっていた。そして、ついにヨーロッパからやって来たのだという自 信もすっ飛んでいたように思える。僕は、この時の自分の心境を決して大げさに言っていない。この国で、これからちょっと不審な行動でもしてみれば、最悪、 拳銃で撃たれるかもしれない。もちろん、それは相当の行為をした場合だろうが、それでなくても、「アメリカ」がそういう社会であることには変わりはないだ ろう。実際、冗談だろうということが現実に起こってしまう国ではないか。と、機内でここまで深く考えていなかったにせよ、僕はこの時、とにかく変に緊張し ていたのである。 

  JFK空港からマンハッタン島までは、電車で一本である。島の中心部までは大体、一時間ほどで、駅数も多い。電車がある駅から次の駅へと進んでいくうち に、僕のいる車内はどこを見渡しても黒人、黒人、黒人である。数年前まで、NYの地下鉄といえば、窓に落書きは当たり前、車内はゴミが散乱して汚く、おま けに治安が悪いという始末であったようだ。しかし、近年の大幅な地下鉄美化活動によって、そうした現状はかなり改善されたらしい。そして、そのお陰で地下 鉄内の犯罪率が、以前より急激に減少したという。環境の変化は、それほど人の心を動かすのだろう。

 僕が初めて乗ったNYの地下鉄は、そういった意味では、美化活動によって大幅に改善された状態であった。これも、ニューヨークの新しい一面であるかもしれない。
  それにしても、黒人が多い。生まれて今日まで、これほど黒人に囲まれたことがなかったために少し緊張した。と、同時に、アメリカにやって来たのだという実 感が涌いてきた。黒いサングラスにニット帽を深く被り、全くの無表情で座っている黒人。音楽を聴きながら口ずさみ、ノリノリで体を揺らす黒人。ボディー ガードのようながっちりとした体格と高身長で、革ジャンが様になり過ぎているモデルのような黒人。なかには、目が大きくて丸くて顔も丸い、愛嬌のある黒人 も目の前に座っている。駅に止まる度、そんな彼らが次から次へと電車に乗ってくるのである。割合、黒人の姿をよく見かけたパリですら、さすがにこんな事は なかった。(パリでは、スーツを着た黒人が高級なブランドショップなどの販売員や警備員をしていることが多かった)電車がいよいよマンハッタン島に近づく と、車内は徐々に混み始め、電車がタイムズ・スクエアなどの中心街の駅に到着すると、黒人だけではなく白人や僕のような東洋人も、あっという間にミックス 状態になった。さすがはアメリカだな、と思った。

  空港から電車に乗り込む前、今晩泊まろうとしていた宿の行き方をある大柄な黒人警備員に尋ねたら、もうこれ以上ゆっくりできないほど丁寧な英語で教えてく れた。親切な黒人であった。が、僕はそれでも迷ってしまった。タイムズ・スクエアなどの複数の路線が交錯する駅では、もちろん人は大勢いるが、プラット ホームはやや暗い感じがする。また美化活動が実地されたからとはいえ、やはり地下鉄特有の生暖かい風と一緒に、アンモニアのつんとする臭いが鼻にかかる時 がある。 
 多くの人が立ち並ぶプラットホームの真ん中では、じつに陽気な表情で、今まで見たこともない不思議な楽器を使ってリズムカルな曲を演 奏する者がいる。また、マイクを片手に大熱唱している女性の姿があった。それがまた、迫力満点だったりするのである。大概、黒人である。彼らのつくりだす 陽気な音楽こそ、この何となく暗いNYの地下鉄には不可欠であるだろう。
 迷いに迷ってようやく地上に出た時、もう陽はとっくに沈んでいて辺りは 真っ暗であった。僕は、セントラルパークの西側、パーク沿いの道をひたすら北へ歩き始めた。電車を降りたのが、少し早かったようである。宿までしばらく歩 かなければならない。11月下旬、ニューヨークの夜はもう冷え込んで寒かった。

 

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アクロポリスの丘と西洋の原点

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ヨー ロッパの歴史を今まで深く考えたこともなかった僕には、ヨーロッパの先進国をイギリスやフランス、ドイツといった国であると考えていた。日本が幕末から明 治時代にかけて急速に西洋化した歴史が僕にとって記憶が新しく、イギリスをはじめとして先に述べた国から受けた影響は、間違いなく大きかったといえる。し かし、僕はようやく気が付いた。「ヨーロッパ」を考えるとすれば、まずギリシャやイタリアの存在を抜きにしては語れないということを…
  現代ではどうか。かつての文明国はヨーロッパにおいて、政治的にも経済的にも他国に影響を及ぼすどころか、すっかり影を潜めてしまっている。僕が眺望した パルテノン神殿は、もはや「過去の栄光」であって、それは現在に続いている栄光では決してない。例えば、今回の旅行では訪れなかったが、南欧でも西部に位 置するスペインやポルトガルは、大航海時代において世界をリードするまさに大国であった。アメリカ文明、南米大陸、アジアのあらゆる財宝を剥奪し、自分達 の国へ持ち帰った。自分達の「言葉」だけを植え付けて…それは、南米大陸をみれば一目瞭然である。そして、彼らはその剥奪した財宝を持ち帰り、その「栄 光」にただ酔い痴れた。それを何にも生かせなかった。やがて、スペインの無敵艦隊と恐れられたアルマダも、英国海軍に敗北する。以降、スペインやポルトガ ルの「栄光」は一瞬のうちに過去のものとなった。そして現在のスペイン、ポルトガルはどうか。ヨーロッパにおいては、すっかり後進国になっているではない か。
 そうした南欧諸国の過去と現在を考えているうちに、歴史というものが実に恐ろしいものであることが分かったような気がする。しかし、文明国ギリシャ・ローマが、間違いなく、「ヨーロッパ」の原点であることには変わりはないだろう。
  約2ヶ月、僕は急ぎ足でヨーロッパを巡った。そして、最後にこのアテネを訪れて良かったと思っている。はっきりとした理由は分からないのだが、これがもし 最初にアテネを訪れ、逆周りで旅を続けていたら、「ヨーロッパ」に対して全く違う印象を受けていたかもしれない。「ヨーロッパ」を巡るにあたって、最後に ふさわしい国だったと思う。

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ムーセイオンの丘から望む

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ア クロポリスの丘の谷一つ隔てた場所に、小高いムーセイオンの丘がある。僕は、アテネを去る前日、その丘に登った。もう夕刻だったせいか、人はほとんどいな かった。しかし、この丘の天辺からアクロポリスの丘の全景と白一色の町並みをはるか遠方まで眺望することができる。頂上に着いてまもなく、街の至るところ にある教会の鐘が音楽のように一斉に鳴り始めた。それは、街中のあの騒がしさを忘れてしまうほど、心地の良い響きだった。
 アクロポリスの丘があ れほど観光客を集めているにも関わらず、このムーセイオンの丘は誰の目にも映っているはずなのだが、あまり人を集めているようには思えなかった。確かに、 ここにはアクロポリスの丘に比べて、一つの石塔しか建っていない。しかし、もしこれからアテネを訪れる人がいたら、僕は間違いなくこの丘に登ることを勧め るだろう。ここは、少し離れた場所からアクロポリスの丘の全景を眺望することができる唯一の場所であると思う。僕は一人、近くの岩の上に座り込み、その壮 観な景色を目に焼き付けた。やがて夕日が沈み、辺りが暗くなると神殿がライトアップされる。もはや、廃墟でしかないその神殿は、一つの巨大な岩石といえる アクロポリスの丘の上にくっきりと浮かび上がった。実際、このパルテノン神殿の間近に行った時、その大部分に補修工事がなされていて、これらの遺跡の保存 や維持は大変な技術を要しているのも事実である。本来であれば、いつ崩れてもおかしくはないのだが、そうした人間による労力によって依然、神殿は崩れず立 ち続けている。このムーセイオンの丘から眺めた神殿の全景というのは、少なくとも、その日まで僕が見てきた「ヨーロッパ」の風景にはなかった。それは、同 じ文明国であるイタリアのローマにおいても同様である。イギリスにもなく、北欧にもなく、東欧にもない風景であると思った。

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アテネの印象

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アテネで最初に受けた印象は、ここはもう「ヨーロッパ」ではないのではないか、ということであった。それは、どちらかといえば、「アジア」に近い雰囲気があ り、僕は、ヨーロッパをアイルランドからイギリス、北欧、中欧、そして南欧と巡って来たためか余計だったかもしれない。例えば、「北欧」と「南欧」で見た それぞれの街の風景や人々の様子を比べた場合、その経済的な貧富の差は歴然としている。それは、前者が裕福な国々であり、後者が貧しい国々である。 
 アテネの街を歩くと、歩道で新聞やパンを積み重ねて商売をしている中年の男たちがたくさんいる。(彼らの朝は非常に早い。サントリーニ島に出かける時、まだ暗い駅の前で、すでにパンを売っていた)また、街に点在する広場の辺りでは、失礼ではあるが、地べたに
がらくた
と もいえるような雑貨を並べている商売人の姿が目立つ。ある通りがかりの若い女性は、彼らの売り物であるストッキングか何かを手にとって見ていたが、その商 売人の必死の売り込みも無念、最終的にその女性は立った状態から地べたに座っていたその商売人の目の前に、すっと手からそれを落とした。こういう光景を目 にしてしまうと、日本でいう安くて賑やかな楽しいフリーマーケットのイメージとかけ離れている。それは、少なくとも、「北欧」で見かけなかった商売の風景 であった。
 物乞いは、北欧にしろヨーロッパ諸国どこでも見かけたが、数は正確に計算していないにせよ、やはり東欧から南欧にかけて多い気がす る。アテネは物乞いも多いが、こうした商売人の数も多い。ただ、先ほどの女性と商売人との経済的な立場上の相違ともいえる格差も大きいことは確かだろう。
  北欧は裕福、南欧は貧乏。これは、あくまでも「ヨーロッパ」という範囲のなかで極端に述べている。(これを「アジア」や「アフリカ」も含めてしまえば、ま た別問題になるだろう)この差がはっきりと分かるようになったのは、一体いつ頃なのだろう。時代でいえば、古代から中世を経て近代へと変わっていくが、そ の中世を境にした頃だろうか。  
 古代ギリシャ・ローマ文明は、 哲学、文学、芸術など多くの多大な影響を西洋社会の歴史に残した。現在でこそ、完全な廃墟でしかないパルテノン神殿の周辺は、紀元前、大小多数のポリス (国家都市)が成立していて、アテネはその中心的な場所であった。このパルテノン神殿をがっちりと支えているアクロポリスの丘の麓には、アゴラと呼ばれる 公共広場の跡も残っており、当時はすでに市場も開かれていた。市民の大半は、そこで政治・経済の意見交換をしていたという。日本では、朝鮮から水田稲作の 技術を取り入れようとしていた頃である。そうして考えると、古い時代からすでに日本も海外の文化が入り始めている。日本の歴史も随分と古く、深い。

だが、それでも何か、古代ギリシャと聞くと偉大な歴史の差を感じてしまう。

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サントリーニ島へ

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ア テネ滞在中、僕はプリウス港から船でサントリーニ島へ出かけた。早朝に出航し、夕方前には到着するのだが、途中、エーゲ海に浮かぶ多くの島を経由してい く。僕は、その度に外のデッキへ出て、島に住む人々が出迎える光景を眺めていた。真っ青な海が、照りつける太陽の光にギラギラと反射している。どの島も、 青と白を基調としたおもちゃのような家や教会が建っている。僕は、どんどん違う世界に向かっている気がした。それらの島の一つであり、知名度の高いサント リーニ島も同様であった。
 船が島に近づいてくると、真っ白な雪が高い崖の天辺に降り積もっているように見えるが、それが町である。さらに近づくと、意外にも断崖に近い急斜面である。
  この三日月の形をした島には、大きな町(とはいっても、一つ一つが小規模)が数えられる程度しかない。その他は、この三日月の本島の懐に浮かぶ火山の影響 なのか、荒れ地のような風景が広がっている。僕は、この島で一番人口が多いフィラという町に宿をとった。距離五〇メートル足らずのメインストリートがあ り、そこから細い道を海の方へ抜けると、景色はがらりと変わる。真っ白な建物が、その急な斜面に沿って不規則に建ち並んでいる。迷路のような道や真っ白な 階段を歩き始めると、エーゲ海を望むテラスで食事を楽しむ家族の会話が心地よく聞えてきた。さらに、宝石店、古着屋、サントリーニ島の風景画をたくさん並 べたおみやげ屋、レストラン、小さな無料民族博物館、教会、そして、青と白の二色の小学校らしき校庭で、元気に遊び回る子ども達の姿がある。建物のほとん どが白のペンキで塗り固められており、少し離れてそれらを見渡すと、一つ一つがお菓子で作られた家のようである。
  学校の校庭で走り回る子どもたちのように、彼らにはこの島にごく自然な日常生活がある。この島に滞在していた数日間、僕は必ずエーゲ海に沈む夕日を眺め た。オレンジ色に輝く太陽が水平線の辺りまで沈むと、あとは一瞬といえるほどの速さで、エーゲ海の向こうに落っこちてゆく。この瞬間、僕を含めた多くの ギャラリーが一斉に嘆き、喚声をあげる。しかし、尚もオレンジ色の鮮やかな光を水平線の端から端いっぱいに放ち、空をグラデーションのように染め上げてい る。その光に反射し、くっきりと浮かび上がる淡いオレンジ色の家々を眺めた時、僕はとうとうこの島の人々の日常が夢のように感じた。こんな御伽話のような 場所に来てしまえば、誰でもこんな綺麗な所にずっといられたら、と羨ましく思うことだろう。僕もそうであった。
  しかしである。この島で合計四回も遭遇した中国人の青年(中国人の旅行者に出会ったのは、後にも先にもこの時だけである。彼は、ニコンの一眼レフカメラを 愛用していた)は、こう言っていた。「旅行でくるなら、こんなに素晴らしい所はないよ。だけど、住むとしたら僕は御免だなぁ」
  確かに、例えば僕のような異国の人間が、この島に三年も四年も住んだらどうなるだろうか。やがて、あの美しい夕日に感動することもなくなり、そして、やる 事がなくなる。最悪、道端の至る所でぐったりと寝転ぶ暢気な犬たちのようになってしまうだろう。だが、自分の国にきちんとした日常がある人であれば、「帰 りたい」と嘆き始めるだろう。その帰りたい場所は、疑いも無く日本である。「住むのは御免だ」と話していた中国人の青年もまた、この島に彼の日常がないか らだ。日本という国で二十数年育ってきた以上は、たとえここが夢の島であっても、それはやはり束の間の感動を味わうためであって、本当に住みたいなどと心 の底から思えないのだ。結局、この時の僕は、非日常を楽しむ「旅行者」でしかなかったのだ。

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ギリシャ人の特性

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夜、 空港から乗ったバスが市街地に入ると、熱気と共に急に騒がしくなった。大通りの交通量は多く、ほとんどの車がほこりを被っていて汚い。その騒がしい要因 は、どうやらそんな汚い車からプープーと頻繁に鳴り響くクラクションのせいだろう。ごちゃごちゃとした古臭い商店街が道路に沿って軒を並べている。建物 は、今まで「ヨーロッパ」で見てきた整然で華麗で優雅なものとは異なり、どれも白一色で統一されているが、どこか薄汚れていた。僕は、エーゲ海を望む街、アテネにやって来たのだ。
 ストックホルム、プラハ、パリなどで見たきたお洒落なレストランやパブ、上品な音楽と静かでゆっくりとした雰囲気にしばらく酔わされていたせいか、このア テネにやって来た途端、ついに「ヨーロッパ」という一つの大きな領域を抜け出してしまった気がした。それは間違いなく、「ヨーロッパ」で初めて耳に障わっ た騒がしさであった。
  ギリシャ人(特に、僕が見た中では男性)ほど、話好きな国民はいないだろう。それは、北欧ではなく南欧の人々にはっきりと表われている一つの国民性である かもしれない。それは、我々にとっても親しみやすい特質でもある。空港から乗ったバスの中で、初めて耳にしたギリシャ語は、彼らのオーバーな身振り手振り と独特のリズムカルな発音のせいか、まるで歌でも歌っているかのように聴こえた。そして、彼らの会話はそこで終わらない。時に、彼らは会話に熱くなりすぎ て、もはや「会話」を越えた「論争」になってしまうようである。
ある晩、狭い裏通りにあるタベルナ(ギリシャに数多くある大衆レストラン)に行った。店内に入ると、客は一人もおらず、店主と常連客の男が何やら話し込ん でいる。注文をとり終わると、彼らはまたすぐお喋りを始めた。会話の内容はさっぱり理解できないが、次第に彼らはお互いの意見に納得がいかなくなったの か、激しい討論となりはじめた。言葉は全く分からなくても、不思議と彼らの表情やしぐさを見ているとすぐ分かった。
  僕は彼らに見兼ねて、店内にあった小さなテレビに目を向けた。ニュース番組の中継画面にこの国の政治家が二人、画面を二つに割って何か話している。そのう ち、嫌な予感がしてきた。すると二人の政治家は、テレビ中継ということを忘れたかのように、お互いの主張をぶつけ始めたではないか。どちらも折れることな く、二人の声が重複してさらに何を言っているのか分からない。もう誰も止められない。依然、店内では同時進行で討論が繰り広げられている。僕の目の前で は、あっちでもこっちでも、ギリシャ人の男達が熱くなっている姿しかなかった。この時、「お客」であった僕はチキンをかぶりつきながら、一人苦笑してい た。
  ギリシャだけではなく、南欧の人々の特質がもう一つあるとすれば、明るく陽気であるという対極に、やはり短気で熱くなりやすいことかもしれない。これはあ くまでも、例えば日本人は恥ずかしがりやであるという世界の国民性を表すジョークのようなものかもしれない。が、アテネの街中で昼夜、車のクラクションが 頻繁に鳴り響いていることを考えているうちに、何だかその車内の運転手たちから「何してんだ、さっさと進みやがれ」と、いうような罵声が聞こえてきてし まった。

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スイスの大自然に秘めたもの

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大 自然の国スイスをあっちこっちと見て回って不思議に思えたこともある。地理的に、この国はフランス、ドイツ、イタリアの三国に囲まれていて、僕は南のイタ リア側から入国した。最初に滞在した標高1800メートルを越えるサンモリッツでは、レストランの店員も客もみんなイタリア語を話している。そして、バー デンに住むダニエルたちの母国語はドイツ語であり、最後に訪れたベルンなどでは、現地の人からフランス語が飛び交っていた。スイスという国は、その小さな 国土の中でも、地域によって言語が異なるのである。(スイスには、一番その人口が少ないロマンシュ語を話す人々もいる)そして、それはこの国に「スイス 語」という言語が存在していないということでもある。こうした地理的な環境は、日本のような海に囲まれた島国とは全く異なる。

話 が飛ぶが、この旅行で後々アメリカのシアトルを訪れた時、こんな事もあった。ユースホステルで知り合ったスイス人の二人の青年だったのだが、彼らはお互い の旅中で出会い、そのまま一緒に旅行を続けていた。彼らは、同じスイス人であるにも関わらず、「英語」で会話をしていたのである。日本人は、日本という国 で日本語を話して意思伝達をする。それは、僕にとって普段は意識もしない当然のことだったのだが、彼らのやりとりを見て、少なくともそれが異様な光景に思 えた。同じスイス人であるのに、母国語はそれぞれ地域によって異なるから、いざ彼らがコミュニケーションする時、どちらかの言葉に合わせるか、もしくは、 アメリカで出会った二人の青年のように英語で会話をするのである。
  日本語というのは、世界でも日本にしかない独特の言葉である。その言葉を生まれて今まで、意識もせずにいつのまにか話せるようになった。それが、自分は日 本人であるという自己の存在を証明できるものであり、(特に異文化の国においては)世界の色々な国の言葉をたくさん聞けば聞くほど、特にそうした意識が芽 生えてくる。例えば、日本語から少し遠ざかっている頃に、ある安宿で日本人旅行者とばったり遭遇して何気ない会話をする。日本語で情報交換をする。そうい う時間は、僕にとってやはり落ち着けるものであったし、自分は日本人なのだという安心感が湧いてくるものだった。
  だからといって、僕は2人の青年を悲観的に思っているわけではない。スイス人の彼らの共通語が「英語」だからといって特別具合の悪そうな様子などもなかっ たし、実際、僕が考えているほど複雑な感情など抱いていないだろう。僕が言いたいことは、世界において、隣接する三国もの言語が入り混じって成り立つ国 は、じつに稀であるということだ。そういうユニークな国家だからこそ、ヨーロッパにおいても、永世中立国としても存在していけるのかもしれない。
  スイスの精密機械工業は世界的に有名であるが、ルチェルンという湖の美しい街の通りには、アーミーナイフや高級時計のお店がずらりと並んでいた。それは、 通りの大部分を占めているのではないかと錯覚するくらいである。そして、これほど自然に恵まれた山岳国家であるから、観光業も含めてこの国を支えている重 要な分野であることは間違いない。
  いずれにしても、この国はやはりフランス、ドイツ、イタリアというヨーロッパでは大国に分類される国に囲まれているから、それらの国々からの影響を多大に 受けている。スイスにとっても、周囲3ヶ国にとっても、お互いになくてはならない国であるだろう。この旅を終えて、僕の中でスイスという国に対するイメー ジが少しだけ変わった。

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バーデンの町

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 翌日、僕はバーデンからバーゼルを経由して、パリへ行こうとしていた。ダニエルたちがその見送りも兼ねて出発までの間、バーデンの街を案内してもらった。バーデンは小さな街である。その街の一角にあるさらに小さな旧市街は、古い歴史を感じさせられる。どの家にも、「1700」や「1600」 などの数字が刻まれた表札が玄関の上に付いている。それは、建築された年数だとすぐ予想できたが、その通りであった。そして、旧市街で最も古い屋根付き木 造のホルツ橋は、四百年も前に建築された古いものだった。橋は至って短く、屋根の裏側を覗けばそれは見事に劣化している。足元は、車が通れば抜けてしまい そうだが、まだまだ健在であるようだ。そして、このホルツ橋から少し間隔をあけた高い所に、大きなコンクリート製の橋があり、その上をたくさんの車が走行 している。過去と現在の橋の共存。ヨーロッパでは、どんな小さな街においても、旧市街を国宝のようにして維持している。こうした街並みや建築物の維持にお いては、日本では昔から自然災害に悩まされ、維持することが非常に困難であったことは否めないだろう。まして、木造などは火災が起きれば、一瞬のうちに燃 え上がり灰となる。大地震が起きれば、倒壊する。昔は、鉄筋コンクリートなどは愚か、木造の家や建築物しかなかったわけだし、そうした土地環境の中で維持 してきた我々の先祖は本当に立派であると思う。地震などの自然災害が比較的少ないヨーロッパにおいては、そういう意味では維持がしやすい土地環境であると 思うが、単にそうした環境だけに留まらず、やはり彼らの自国への忠誠や愛国心がそうさせてきたに違いない。
  それにしてもこの日、僕が朝起きてからパリの列車に乗り込むまで、ダニエルとモニカは一体何回スキンシップを交しただろう。家の中で、旧市街で、お土産屋 の中で、外で、トイレを終えたその後で、僕を見送ってくれた駅のホームで、僕が列車に乗り込んだ後の窓越しで、そしておそらく列車が動き出し、彼らが視界 から見えなくなってしまった直後も…である。その場所はお構いなしである。これが仮に日本であれば、どこか軽蔑の目で見られる節があるが、ヨーロッパやア メリカでは特にごく自然な風景である。しかし、時に彼らは博物館の中でもそれをする。さすがにそれを見て「おいおい、ここではどっちかにしようではない か」と、思ってしまったのだが…

 

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ダブリンの思い出を語り合う

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ス イス滞在中、僕はアイルランド留学で知り合ったスイス人のダニエルの家を訪れた。彼は、スイスの中ではドイツ国境に近いバーデンという街に住んでいる。ダ ニエルは、恋人のモニカと同居していて、初対面の彼女もまた僕を歓迎してくれた。モニカは、僕が家にやって来ることを知って、焼肉というご馳走を準備して くれていたのである。そして、僕はとうとう彼女に「ほんと、よく食べるわね!」と、感心して笑われてしまうほど、僕はそのご馳走を勢いよく食べさせても らった。ありがたい話である。
 ダニエルは、留学時と比べて、別人と思えるほど居心地が良さそうであった。彼は、

「俺達はダブリンのホームステイ先で、朝食は乾燥したパサパサのブレッドにコンフレーク。夜は、皿にのった大量のビーンを毎日のように食べていたんだ。あれは辛かったなぁ!」

と、 その思い出話をモニカに嬉しそうに話していた。おまけにダニエルは、そのホームステイ先のマザーの口真似まで披露してくれるのであった。ここはもう、間違 いなく彼の家であった。彼は、「ここは、シンタローの家だからゆっくりしていってくれ」と、言ってくれたのはやっぱり嬉しかった。

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山紫水明の国へ

スイスという国に対して、少なくとも、雄大なアルプスに囲まれ、湖や川は透き通るほど美しく、永久中立国という何と響きの良い平和な国だろうかというプラスのイメージしか持っていなかった。事実、スイスという国はその通りであったのだが…
  僕がスイスに入国したのは、イタリアのティラノからベルニナ鉄道に乗った時である。この小さな町ティラノの駅には、箱根登山鉄道が寄贈した木板が掲げられ ていた。(この時、初めて姉妹鉄道であると知った。スケールが違い過ぎる気がしたが…)駅には、日本語や韓国語の案内標識も設置されているくらいだから、 夏場の観光シーズンは、この小さな駅も人で溢れているのだろう。だが、十一月の初旬の夕暮れ時となれば、人はこの駅に僕しかいなかった。そして、小さな待 ち合い所で出発を待っていると、そのうち入国審査官がやって来て、パスポートを見せてくれと言ってきた。この登山列車に乗ってまもなくすると、国境を越え てスイスに入国するからだ。五両ほどの列車に乗り込んだ。車両には、乗客は僕だけである。かろうじて、他の車両に数人だけ乗っていたのが分かった。みんな 現地の人である。出来るだけ、明るいうちに出発して欲しいものだと思っていたが、すっかり日が暮れて真っ暗になってしまった時、列車はようやく出発した。
  登山電車の独特のどっしりとしたエンジンの響きと震動、列車は民家の隙間を縫うようにして、緩やかな勾配を登っていく。カーテンを閉めている家は少なく、 テーブルを囲んで少し早いディナーを楽しむ家族の光景が目に入る。途中、列車はいくつかの駅で停車した。その度に隣の車両から次々に人が降りていき、なぜ か不安が高まってくる。
  それでも、車内の窓に額を当てて外を覗き込めば、真っ暗闇の中でひと際目立つ、真っ白の雪で覆われている壮大なアルプスが一瞬で僕を虜にした。暗闇に映る アルプスは、ダイナミックであり、また恐ろしいほど神秘的である。暗闇のせいか、こんな所をよく電車が走るものだと感心してしまった。
  列車はかなり急な勾配をどんどん登り、そして標高がいよいよ高くなった時、ある駅で乗換えが必要だから降りてくれと駅員に言われ、別の列車に乗り換えた。 この時、ついに乗客がもう自分しかいないのだと確信した。乗換えをしたのは、僕だけだったからである。それからまもなくすると、終点に近いサンモリッツ駅 に到着した。ホームに降り立った瞬間、雪がホームを一面覆っており、白い息が煙のように出るほどの寒さが襲ってきた。急にとんでもない所に来てしまった、 と後悔した。
  翌朝、サンモリッツは晴天であった。昨夜は恐ろしく見えたアルプスも、空の色が変われば全く別物である。この町の大部分を占めているサンモリッツ湖は、昨 夜は真っ暗で何も見えなかったが、今日は透き通るほどきれいな清水と、白鳥が群れをなして泳いでいる。青い空、眩しい太陽の光、遠くに雪で覆われたアルプ スが見える。予想していたこの国の大自然の景色が、まさにここにはあった。僕は、すでにこの国が持つ「表面的」な魅力に目を奪われていた。

 

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